(写真はwebronza.asahi.comより引用)
2018年9月30日午後8時4分。
スマートフォンが鳴った。
画面の表示には「〇〇さん 玉城デニー事務所」
応答ボタンを押した。
「当確出たから!民放だけど、間違いないよ。」
背景音がざわめく。
私はすでにパソコンで沖縄県知事選の速報番組を見ていて、8時2分に「玉城デニーさん当確」の表示を見て、泣いているところだった。
電話をくれた〇〇さんは、パソコン画面の、デニー選対の会場にいた。
「よかった、電話してくれてうれしい」と返した。
大阪府庁の仕事を辞める最後の決断をした瞬間だった。
さかのぼって9月中旬、朝、沖縄県那覇市の大渋滞の国道沿いに私はいた。
「玉城デニー」という旗を持って、車に向かって手を振っていた。
そうすると、よく見ると、運転席で、たまに目頭をぬぐっている女性がいた。
朝日がまぶしかったからかなと思っていた。
9月30日以降になって、玉城デニーさんの沖縄県知事選勝利の背景に、女性の圧倒的な支持があったのを知り、やっぱりあれは涙だったと確信に変わった。
女性たちは、私の頭上の「デニー」の旗を見つけて、翁長さんの辺野古基地建設阻止の死闘を思って、涙していたのだ。
沖縄で、名もなき私が持った旗のデニーの文字を見て泣いた、名もなき女性と、歴史の1ページでつながった。
数日を事務所で過ごしただけの私に、当確の電話をかけてくれた沖縄の人と、大阪でつながった。
こういったことを喜びにする人はまだ少数かもしれない。
でもきっと、いつか遠くない将来に、それぞれの人が持つ小さな心のともしびがつながり燎原の炎になって、差別と不正を焼き尽くす、そんな人々の歴史を私は望むし、これを読んでいるあなたと、そのとき互いに喜びあいたい。
以下は、2012年に書かれたある国鉄組合員の、故人を偲んだ手記のしめくくりだ。
「消えたように見える闘う人々の隊列はいつか復活すると、今、私は思いたい。
世の中から差別や不正がなくなり、すべての人々が安心して働き続け、生き続けることのできる世の中がやってくる日まで、消えたように見える闘いの炎、少数の者だけが孤立に耐えて掲げ続けた炎は、いつか燎原の炎となって、差別する者たち、不正をはたらく者たちを焼き尽くすのだと私は思いたい。
(中略)
死の三日前まで組合事務所に座っていたという故人の執念を思うとき、私は再び闘いの前面に立ちたいという気持ちの高ぶるのを感ずる。
新しい闘いは何よりも非正規労働者の正社員化をめざす闘いでなければならない。この闘いを共に闘える仲間はどこにいるのだろうか。
私は未来の同志をさがして、もう一度旗を掲げたいと思う。」
先人のともしびを引き継いで。何度でも、もう一度。